LOGIN「……例の件、頼みましたよ」
低く、よく通る声が廊下に落ちる。「はい、天道様。……しかし、これ以上隠し通すのは、ご本人にもお嬢様にも……」 担当医が言い淀み、視線を泳がせた。 隠す? 何を?「余計なことは言わなくていい」 征也の声が、鋭い刃物のように医師の言葉を断ち切った。「莉子には何も知らせるな。彼女に余計な不安を与える必要はない。……すべて、俺がコントロールする」「……はっ、承知いたしました。データの改竄……いえ、調整の方も、指示通りに」「金はいくら積んでも構わん。……絶対に、こちらの管理下から出すな」 征也が懐から取り出したのは、厚みのある茶封筒だった。 院長の胸ポケットに、それを無造作にねじ込む。 膨らみきった封筒の厚み。 中身が何であるかなど、想像するまでもなかった。 喉の奥から悲鳴がせり上がりそうになり、両手で口を覆う。 本当だったんだ。 情報を遮断し、カルテの数値を書き換え、金で医師を黙らせて、母を「管理下」に置いている。 『莉子には知らせるな』と、箝口令まで敷いて。 視界がぐらりと歪んだ。 涙ではない。足元の床板がすべて抜け落ち、底なしの暗がりへ突き落とされるような感覚だった。『お前を守るためなら、何だってする』 あの言葉は、嘘だったの? いいえ、違う。きっと彼にとっては、それこそが真実なのだ。 あの人にとって私を「守る」ということは、手の届く範囲に釘で打ち付け、逃げられないように檻の中に閉じ込めておくことと同義なのだから。 そのためなら、母の病状さえも利用する。 それが、天道征也という男の本性。 胃の腑が焼けつくように熱くなり、指先は氷水に浸したように冷え切っていく。 ここにいてはいけない。 私は音を立てない私の心が弱いからだ。まだ、あの優しかった「征也くん」の面影を捨てきれずにいるからだ。 征也はふっと口の端を歪めた。 自嘲とも、蔑みとも取れる笑み。「……優しいな、人殺し相手に」「っ……」「心配するふりなんてしなくていい。……お前は、俺が早く死ねばいいと思ってるんだろう」 彼はグラスを煽り、空になった器をテーブルに叩きつけた。 ドンッ、という音が響き、私は肩を震わせる。「違います……私はただ……」「ただ、なんだ。……俺が弱れば、逃げ出しやすくなると思ってるのか」 息が止まる。 征也はふらつく足取りで立ち上がり、私の方へと歩いてきた。 酒の匂い。 ムスクと煙草、そしてアルコールの饐えたような匂いが混じり合い、鼻をつく。 彼は私の椅子の背もたれに手をつき、顔を近づけてきた。 充血した目。荒い息遣い。 怖い。 以前のような、計算された威圧感ではない。 制御の効かない、壊れた機械のような危うさがある。「……逃がさないぞ」 耳元で、湿った声が囁く。「俺が死んでも、お前は道連れだ。……あの世まで、鎖で繋いで連れて行く」 征也の手が、私の首元のサファイアに触れた。 冷たい指先が、肌の上を這う。「……っ、離して……!」 私は反射的に彼の手を振り払った。 パチン、と乾いた音がする。 征也の手が宙を舞い、力なく垂れ下がった。 彼は怒らなかった。 ただ、手負いの動物のような目で私を一瞥し、よろめきながら書斎の方へと去っていった。 背中が、小さく見えた。 どうしようもなく孤独で、悲痛な背中。 残された私は、冷え切った食卓で、震える拳
あの日から、屋敷に流れる時間は凍りついたままだった。 窓の外では、季節外れの長雨がしとしとと降り続いている。 湿った空気が隙間という隙間から入り込み、屋敷全体を覆う重苦しい沈黙を、さらに粘り気のあるものへと変えていた。 夜の七時。 ダイニングルームには、カチャリ、カチャリと、銀の食器が触れ合う乾いた音だけが響いている。 広すぎるマホガニーのテーブル。 その端と端に、私と征也は座っていた。 かつては、彼が私の隣に椅子を引き寄せ、膝が触れ合うほどの距離で食事をしていた場所だ。 けれど今は、物理的な距離以上に、果てしない断絶が二人の間に横たわっている。「……」 私は皿の上に載せられた白身魚のポワレを、フォークの先で小さく崩すことしかできなかった。 喉の奥が詰まって、固形物を受けつけない。 おそるおそる視線を上げると、テーブルの向こうに座る征也の姿が目に入った。 彼は、食事に手をつけていなかった。 手元にあるのは料理ではなく、琥珀色の液体が波々と注がれたロックグラスだ。 彼は無言でグラスを傾け、氷がカランと音を立てるたびに、強い酒を喉の奥へ流し込んでいる。 その姿は、見ていられないほど荒んでいた。 いつも完璧に整えられていた黒髪は乱れ、無精髭が顎を覆っている。 シャツのボタンは三つほど外され、露わになった鎖骨は病的なほど白い。 目の下には濃い隈が刻まれ、頬がこけている。 たった数日で、彼は別人のようにやつれてしまっていた。「……社長」 耐えきれず、私は声をかけた。 征也の手が止まる。 虚ろな瞳が、ゆっくりとこちらに向けられた。 その目には、私を射抜くような鋭さはもうなく、ただ曇った硝子玉のような虚無が広がっている。「……なんだ」 声が、酷く掠れていた。 酒焼けしたような、ざらついた響き。「少しは、食べてください。…&hellip
◇ 廊下に出た征也は、ドアに背中を預けたまま、動けずにいた。 膝から力が抜け、ずるずると床へ崩れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって必死で堪える。 左手が、小刻みに震えていた。 彼女に触れようとして、拒絶された手だ。 『気持ち悪い』『吐き気がする』 莉子の悲痛な叫びが、呪いのように鼓膜にへばりついて離れない。「……っ、ぐ……」 喉の奥から、乾いた呻きが漏れた。 痛い。 心臓を素手で鷲掴みにされ、握り潰されたようだった。 四年前。まだ何者でもなかった自分が、彼女の家の事情を知りながら、何もできずにただ指をくわえて見ているしかなかったあの日。自分の非力さを骨の髄まで思い知らされたあの時よりも、ずっと深く、致命的な傷だ。(……これでいい) 征也は、震える手で顔を覆った。 あそこで「俺じゃない」「神宮寺がやったんだ」と説明することはできた。 だが、今の俺にそれを証明する手立てはない。 神宮寺蒼は狡猾だ。自分の手を汚さず、すべての痕跡を綺麗に消し去り、俺になすりつけている。 今、莉子に真実を告げても、「往生際が悪い」「嘘つき」と罵られるだけだ。 それに、下手に神宮寺を刺激すれば、奴は何をするか分からない。莉子の身に、取り返しのつかない危険が及ぶかもしれない。 ならば、自分が泥を被り、悪役になればいい。 父の仇として憎まれ、軽蔑されても、彼女をこの手元に置いて守り抜く。 それが、不器用で愚かな今の自分にできる、唯一の償いであり、愛し方だ。「……嫌っていいぞ、莉子」 誰もいない薄暗い廊下で、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。「俺を殺したいほど憎んでくれ。……そうすれば、お前は俺から目を逸らせない」 歪んだ論理だとは分かっている。 でも、そうでもしなければ、心が粉々に砕けてしまいそうだった。 征也は壁に手をついて立ち
部屋に残された私は、その場に崩れ落ちた。 床に散乱した書類の海の中で、膝を抱えて小さくうずくまる。 これで、よかったはずだ。 彼がひた隠しにしてきた罪を突きつけ、拒絶し、言葉の刃でその心を切り裂いてやった。父を死に追いやった無念を、ほんの少しは晴らせたはずだ。 それなのに。 どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。 最後に見た、征也の目。 『気持ち悪いか』と呟いた時の、あの一瞬の表情。 まるで、迷子が親に見捨てられた時のような、どうしようもない孤独と恐怖が滲んでいたあの目が、脳裏から離れない。(……騙されないで。あれは演技よ) 自分自身に言い聞かせるように、奥歯を強く噛みしめる。 彼は父を追い詰め、全てを奪い去った略奪者だ。それだけは、決して揺るがない事実なのだから。 蒼くんがくれた証拠は嘘をつかない。 でも、もし。もし、まだ私の知らない真実があったとしたら? 彼はなぜ、あんなにも悲しそうな顔をしたの? 頭が割れそうだ。 私は書類の束をかき集め、ゴミ箱に叩き込んだ。見たくない。何もかも忘れてしまいたい。 ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震え、思考を現実に引き戻した。 無機質な液晶画面に浮かび上がる『蒼くん』の文字。 まるで、この密室での出来事を壁の向こうから覗いていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。『見たかな? 辛かっただろう。……でも、これで君も目が覚めたはずだ』 メッセージの続きが表示される。『準備はいい? 来週、病院へ行くだろう? その時、迎えに行くよ。……あの悪魔の手から、君を救い出すために』 来週、病院。 なぜ蒼くんがそのことを知っているのか。今の私には、そんな疑問を持つ余裕さえなかった。 私は涙を拭い、スマホをぎゅっと握りしめる。 もう、迷いはない。断ち切らなければならない。 この冷たい檻のような屋敷を出る。 母を連れて、天
不意をつかれた征也が、よろりと一歩後退る。 その隙に私はベッドの反対側へと逃げ、喉が裂けんばかりに叫んだ。「もう触らないで! 二度と、私に触れないで!」 金切り声が、広い部屋に反響する。「気持ち悪い! あなたの手も、声も、匂いも……全部! 吐き気がするのよ!」 自分の体を抱きしめ、二の腕に爪を立てた。 彼に触れられた感触を、皮膚ごと削ぎ落としてしまいたかった。「……っ」 征也の動きが、ぴたりと止まった。 彼は、見えない拳で殴りつけられたような顔をしていた。 いつも完璧な鉄面皮を張り付け、感情を殺していた彼の表情が、一瞬だけ、音を立てて崩れ落ちたように見えた。 漆黒の瞳の奥で揺れていた暗い炎が、ふっと消える。 代わりに残ったのは、魂が抜け落ちたような、底知れぬ虚無だった。 彼は自分の手を見つめた。 私を抱きしめようとして拒絶された、行き場のないその手を。 指先が、微かに震えている。「……そうか」 息の詰まるような沈黙の後、彼が絞り出した声は、ひどく掠れていて、まるで別人のようだった。「……気持ち悪いか」 それは問いかけではなかった。ただの、絶望的な確認。 彼はゆっくりと手を下ろし、強く拳を握りしめた。爪が掌に深く食い込み、関節が白く浮き上がるほどに。 彼が今、何を考えているのか。混乱した私の頭では理解できない。 ひどく傷ついているように見えるのは、私の見間違いだろうか。 父を殺した冷血漢が、たかが手に入れた女一人に拒絶されたくらいで、傷つくはずがないのだ。 きっと、自分の所有物が思い通りにならなくて苛立っているだけだ。そうに違いない。 征也は深く息を吸い込み、再び冷徹な仮面を被り直した。 私を見る目は、もう何の熱も帯びていない。 氷のように冷たく、そしてどこまでも遠い目。「いいだろう」 彼は、床に散らばった書
「……否定はしない」 永遠にも似た沈黙を破り、征也が言った。 感情の一切ない声だった。「え……?」「月島の債権を買い叩いて、会社をバラバラにしたのは俺だ。……結果として、お前の父親を追い詰め、死への引き金を引いたのも、俺かもしれない」 顔色ひとつ変えず、ただ事実だけを並べる。 そこには言い訳も、許しを請うような響きもない。「お前のためだった」とか、「仕方なかった」とか、私がどこかで期待していた言葉は、ついに一言も紡がれなかった。 視界がふらりと揺らぎ、足元の床が抜け落ちたような感覚に襲われる。 心のどこか片隅で、信じていたのだ。彼が「誤解だ」「俺じゃない」と必死に首を振り、震える私を抱きしめてくれることを。 けれど、彼は認めた。 私の父を殺したことを、真っ向から。「……どうして」 景色が歪み、熱い滴が頬を滑り落ちる。「どうしてそんな酷いことを……。私たちが、何をしたっていうの? ただ、隣の家に住んでいただけなのに……」「お前は何もしていない」 征也が一歩、こちらへ踏み出した。革靴が床を叩く硬質な音が、やけに大きく響く。「だが、お前の父親には力がなかった。経営者として生き残る器じゃなかったんだ。……俺が手を出さなくても、遅かれ早かれあの会社は潰れていた」「……っ!」 父を愚弄された怒りで、頭の中が真っ白になる。 私は弾かれたように立ち上がり、目の前の男の頬を張ろうと右手を振り上げた。 風を切った手のひらは、しかし、頬に届く寸前で止められた。 ガシッ。 万力のように強い力で、手首を掴まれている。 彼の手のひらから、焼けるような体温が流れ込んでくる。こんなに最低な男なのに、その熱に身体が反応してしまう自分が疎ましい。「離して! ……汚い